漫才とコントの違いは何?ビートたけしの答えが分かりやすいとネットで話題に
「漫才とコントの違いは何か?」
漫才日本一を決めるM-1グランプリを見ているとネットでは必ず「これは漫才じゃなくてコントだろう」というツッコミが入っていますね。
M-1 グランプリとコント日本一を決める「キングオブコント」で同じようなネタをするコンビもいますし、違いがよくわからないですね
なかなか難しい問題ですが、ビートたけしさんにインタビューした記事が話題になっています。
たけしの回答は明快だった。「漫才やってる人は、コントできるんだよね。コントから急に漫才やれっていうと、難しい」。さらに、自らの体験も踏まえ、「我々は浅草でコントやってて、その後、漫才がどうにかできるなってなるのに、10年かかったからね。漫才師は、状況設定を言葉だけで説明するというハンディがある。コントは動きも入って、衣装も着るから、楽なことは楽なんですよ」と説明した。
映画監督としても世界的評価を受け、小説家としても活躍するだけに「映画で10秒のシーンを小説にやったら3ページかかるんですよ、状況説明が」と“らしい”解説も飛び出した。
「雨の日に車が走って、どこでガタンと音が鳴って…、というのも、映画だったらそのまま(カメラを)パーンすればいい。『もう冬が近い。国道を一台の車が走っていく。枯れ葉がタイヤに張り付いて取れないまま回転するその姿が、冬の近さを思い出させるようだ』なんて書いていくと、たった10秒のシーンが、何ページもかかるんだよね。漫才もそうで、漫才師の方が言葉で説明する部分が多いから、コントから漫才やると、今まで衣装とかシチュエーションを作ってたのを、言葉で説明しなきゃいけない。漫才師の方がコントはやりやすいと思いますね」と言葉に熱がこもった。
その感覚からすると、やはり何もない状態から無理やりシチュエーションを生み出す「コント漫才」には、やはり無理があるのだろうか。そこでたけしは笑い、「腕は別ですけどね」と一言。その真意は追及できなかったが、「無理」を感じさせない自然なトーク展開が、漫才師の「腕」の一つであることは間違いないだろう。
引用元:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190106-00000041-dal-ent
以下、ネットの反応
確かに漫才は難しいけれど、結局、コントだろうが漫才だろうが、面白い奴は面白いんだと。
加えて、映画と小説の例を出したのは、このインタビューへの皮肉にも取れる。このインタビューのニュアンスを、文章でどれだけ表現できるのか、どれだけ面白く書けるのか、この記者の力量を試すかのようにニヤリと笑ったんではないだろうか。
本当の「しゃべくり漫才」に関しては、関西ではまだまだ多いしこれが基本にはなってるが、関東の芸人は事務所が吉本だけじゃなく一杯あるし関東の古参の芸人で今も売れてる芸人はコントメインの人&番組が多いからそれをメインで見て育った人はコントが基本になるだろうしね~。
関西では漫才がメインだからそれを見て育ち漫才師を目指す子が比較的多いし・・・
まぁ今は昔と違い確かに漫才師とコントの境界線がすんごい微妙な感じにはなってるねw
その漫才師が放つ言葉だからこそ、よりウケると言う場面があるね。
それは間合いだったり、声色だったり表情だったり。
もちろん相方との兼ね合いがあってこそだと思う。
よく芸人同士が即興でコンビを組み漫才をやるコーナーがあるけど、
ウケる場合は片方のキャラ、特色を生かした顔芸や瞬間であって、内容では無いと思う。
やはり長年コンビを組んだ芸人同士による漫才は、計算と2人の兼ね合いがあってこその共同作業であって、
漫才中は一心同体なんだと思う。
コントの良さは漫才ファンだけでなく、
老若男女問わずに分かりやすい笑い、なんだろう。
かたや絵面、かたや内容だけれども、
大切なのはやはりお互いに演じるキャラ、その人間そのものの面白さなんだと思う。
ツービートの漫才は、たけしの早口と毒舌で観客を押し切るところがあったけど、状況説明とかその辺はかなりはしょっていたような。
その点、やすきよは掛け合い漫才の達者だったから、動きの大きさで気がつきにくいけど、説明のところがかなりきめ細かくて丁寧だった。
たけしが逆立ちしてもやすきよにはかなわない、というのは、そこをしっかり見極めていたということではないかな。ブームの後で漫才からすぐ足を洗ったのも、その辺の限界が見えていたと言うことかも。
たけしのお笑い評論は、やっぱり深くて面白い。
しかし、テレビで売れるかは別で、キャラ先行のイジられやすい人の方が今はテレビには出演しやすいのかなと思います。
傍らで見ていてすごかった!
反面言い換えると、漫才だと必要な情報だけを伝える事でリードできると言うメリットはあると思いますね。
コントでは説明を省略できる反面不要な情報も含まれる。笑いに向けてポイントへとリードする技術が必要にはなると思います。
どちらもそういったポイントを押さえた人達が技術があると言うのかなと思いますね。
反面言い換えると、漫才だと必要な情報だけを伝える事でリードできると言うメリットはあると思いますね。
コントでは説明を省略できる反面不要な情報も含まれる。笑いに向けてポイントへとリードする技術が必要にはなると思います。
どちらもそういったポイントを押さえた人達が技術があると言うのかなと思いますね。
一方でコントは腕がいいと言われている人たちでも目を閉じた途端に面白さが減少…小道具を使ったり見た目で笑いを取っている部分が多分にあるからかなと感じたりします。
…ただ。
漫才、コントいずれにしても、歌丸師匠が以前おっしゃっていましたが
「お笑いとは人を笑わせること。笑われることではない。」
この言葉をお笑い芸人と呼ばれる方たちはしっかりと噛み締めて精進して頂ければと思います。
昔は講談師が語り、落語家が噺て聞く人は頭の中に情景や設定を
描いた物だ。時代が変わりラジオからの【ラジオ小説】では音や、話で
映像を思い浮かべながら【想像】を楽しめた。
テレビや映画が発達し人は想像よりも【直接視】で想像力を衰えさせた。
現在のスマホやパソコンで【字を書かない】のと同じだ。
漫才がお笑いの王道ならコントは枝葉。
たけしの言う【漫才師は紺とは出来るが、コント芸人には漫才が
出来ないと言うのも理解できる。
漫才はラジオでもうけるがコントはラジオではまずうけないだろう…
ラジオを聴かなくなった現代では仕方が無いのかも知れない
離婚問題で騒がれているが、その家族にしか分からない知り得ない事情もあると思う。また夫婦にしか分からない事があると思う。
離婚については他人があれこれ言うべきではないって個人的には思う。
オンエアバトルは採点は明快で色んなジャンルの笑いを横並びで評価していて純粋に楽しめた。
ジャルジャルが、自分達はコント師なので漫才は作れない。
コントを漫才にしていると言っていたので、なるほど、と思った。
コントと漫才の違いや、しゃべくり漫才とコント漫才の違いは明確だけど、そのどれでもないものがある。
笑い飯とかジャルジャルとか、漫才スタイルでやっているけど、漫才ではないと思える。
ラーメンズとか、コントスタイルだけど極めて演劇性が高い。長時間のものになると喜劇に入るだろう。
でも役者がやる喜劇、コメディでもない。
どこにも分類されないものはどう解釈したら良いのかなぁ?と思う。
伝統芸能の歌舞伎だって回転舞台など装置に併せて進化してきた。陣内とかアンジャなんてのはまさに時代が生み出したスタイルといっても過言ではないと思う。
どっちも見てる側を入れ込む技術は必要。
上手い人は違和感なく見れるけど、芽が出ない人はウルサいだけなんだよね。
これが正解かどうかは、人により様々だと思うが、これだけ明確、かつ分かり易く解説出来る人は、他に居るだろうか?
ところで、さんまは、落語からコントだと思うけど、落語とコントも同じ様な関係にあるんだろうね。
お笑いと言うのはまさに主観であり 好き嫌いがどうしても起こる。
漫才にしてもコントにしても同様で
最近はその境目が分からなくなってきた。
一昔前の漫才はまさにマイク一本で講談師のように勝負
今はその漫才でもコントの要素が強くなってきたし
時代と共にお笑いも変わっているとは思うけど、はっきり分からない。
個人的には、漫才よりコントの方が好きだが。
動きがあって、ストーリーになっているから。
漫才できる人はコントできる、そして、コントできる人は俳優もできると思う。
コントは確かに衣装や小道具が加わる分情報を表現しやすい、漫才はそれを間とセリフだけで持って行く、、、その更に上がそれを一人でこなす落語と言う感じになるのかな。。
そして映画監督が言う通りの感も物凄く有ってそれ故に間が違うだけでシラケるとかスベると言う事が存分にあり得ると言う事なんですね。。
漫才とコントの違いを教えてましたが
その時に「なるほど!」と思いました。
いずれにしても、両方できる人は凄いんですね。しっかり分けるとしたら、自分は漫才が好きかな?
なことも表現する以上言葉で説明する小説はベタな感もします。
これを入れ替えて舞台をするのは経験者でも大変と言う。
バイク事故でツッコミ家庭生活では奥さん誰だっけ?とボケる人生は、なかなか凄いものがある。
ランボルギーニも採用した青色は北野ブルーという。
映画を始め世界での評価は依然高い。
サンドや中川家、フットにナイツの漫才が面白い理由だと思う。
やっぱ最近の漫才師はスタイルが違うよなあ。
爆笑できるのは今の方かもしれないけど、「上手い」と言える人が本当に少ない。
中川家、銀シャリ、ナイツくらい。
漫才はその当時の【あるある事象】を会話風に演じてそれをイメージ(想像させる)させていくドラマ。
コントは実際にあった事を聞きかじり的に再現させても、聴取側の理解力のない人には、その失敗した事象だけで面白いというだけの代物…
・・・と云うコメントをしていました。
要はコントで笑いを取ることは『恥かしい経験を晒す』事が重要とも言えるそうでした。
通行人のエキストラが自然のように、もっと自然なセリフの短さがいい。
コントには演技力が求められるが、優れたコント芸人にはそれがあり、そういう方たちは役者としても即活躍してる。
漫才の腕があっても、それだけでコントや芝居はできないと思う。漫才では名人のやすきよが芝居が上手いとは思えないし。
漫才もコントも出来る人はすごいと思うよ。
漫才とコントの違いは考えていて自分なりの結論を出したが、間違ってなかった。
なので、自分はコントより漫才の方が好きだが、最近はコント師の方が実力がある人が多い気がする。
かつての漫才、落語、話しだけでうんと唸らせるのが増えると良いな、と思います。
ただ今のひとがそれで満足できているならそれでいいのではとも思ってしまう。
今はオール阪神巨人師匠が紳竜のしゃべくりコント漫才を継承してる。やすきよは誰もマネ出来ない
○○のやってるのは漫才じゃない とか
漫才はこういうものだ とか自分が評論家になったような
意見を書き込む人の何と多いことか、
今でもコントっぽい漫才を批判する人がまだまだいる、
どんなネタも斜に構えてみてたら面白いものも
面白くなくなるよ、もっと素直な気持ちで見ようぜ。
面白いと思った事が無いのです。何処が面白いのかと・・・そしたら 倉本聰さんがたけしさんのことを否定的に発言されているのを目にし
そうでしょうと同感。 今もその意見に誰も反論しなかった不思議。
本当に面白い漫才は同じネタでもその間で笑わせることができる。
ネタの順番や入れ換えを客の反応を見ながらあうんの呼吸でステージで行う。
そういう番組をもう一度してほしい。正直ひな壇トークばかりで飽きている。
たしかにボケとツッコミが配役設定をしてやるという入り口は共通なんだろうけど。
そこからあくまでも両者の振りつけも含めて笑いをとるのか。
それとも、そのシチュエーションを語りで観客に思い浮かべさせることで漫才を成立させるのか。
そういう意味でコント漫才に近かったかもしれないけど、しゃべくりの漫才を崩していなかったのは、M1グランプリでチュートリアルが優勝した時の作品。
自転車のちりんちりんが盗まれてさ迷い歩く徳井さんの姿には声を出して笑ったし、いまでもあの作品は思い出されるし。何度でも見てみたい作品だと思う。
何を言ってるんだ?ってなる
ボケも小学生みたいなのばっかりで。
朝とかなら向いてるかもしれないけど疲れ切って帰ってきてテレビを付けてこれだとしんどい。
番組自体はみたくてもいっつもチャンネル変えます。
それ以上に需要があるから出てるんでしょうね。
とても難しいと思います。
和牛のように最初から最後までツッコミが登場人物だと、ツッコミが極めて弱なるし、茶番感が強なるよね。柔らかい笑いとしては素晴らしいんやが。
最近なら、『博多華丸大吉』とか『ナイツ』などはYouTubeに敢えて音声だけでアップされてるけどめっちゃ笑える。
コントはコントで面白いし、どちらが上か下かはないがコントは視覚に、漫才はラジオや落語や漫才は頭の中で自分だけの映像が浮き上がるそれぞれの楽しみ方がある。
役者としては才能あると思うが芸人としてはおもろない。
芸人は全く潰しがきかない仕事ではないから、見切り時が大切。
M-1は、漫才のNo.1を決める大会なので、
コントを入れてしまっては…と疑問に思う。
はたまた、コント漫才なのに、正統派漫才と
紹介するテレビ番組にも疑問が残る。
面白くなって、流行りになって
その回数が多ければ多いほど
そうなるでしょ?
違うことも、もちろんあるけどさ
みんなが笑わないから笑えよということの安易さを良く考えてほしい。
たっぷりと予算を掛ければ、民放より良いものが出来るのは想像に難い。
すると、民放は見なくなり、スポンサーも降りる事になる。
負のスパイラルがやって来る気がする。
このまま、NHKに勝手な事をさせてはならないと思う。
民放で出来る事は、NHKではやるべきじゃない。
何の世界でも人徳や情が大切。
たけしさんは奥様に誠意を尽くすべき。
何があったのかはご本人達しかわかりませんが、何歳になっても元気な人間であれば色恋は仕方がない面もあるかと思います。
不倫を認めるわけではないですが、もしそういう関係になり、それを突き通したいならそれはそれで自由でしょう。
ただそれなら今まで支えてくれた奥様に対して全財産とまではいわなくても、ガッポリみんなか納得する財産を文句言わず渡すべき。
世の中、下衆なもので、屑と烙印を押された人が尤もなことを言っても、お前が言うなとか、言われて終わりだからね
例えば、村上が常識的なことを言っても、上記の様になるだけ。
たけしは、二十年以上連れ添った、嫁をいまさら、切り捨てると言う行動にでた。
夫婦間のことは、私達にはよくわからないけどね、わかる範囲での解釈だと、なかなか下衆な行動なのかなあと、思いました。
そんななかでの、たけしさんの、尤もでまとまったご意見。
今までのたけしさんなら、もちろん、流石と言われるだろうなぁ、と思いましたが、こう言う状況だと皆さん、どう評価するのかなあと、思い、皆さんの意見を読んでみました。
で、1番上の文が感想です。
確かに最近の若手は、『コント漫才』ばかりだよなぁ。コントも、『ショートコント』ばかりになったけど。。。
漫才以外のトークでも明らかにコント師
よりも返しが早くて面白い。
コントはお遊戯を見てるみたいです。
最後の「腕は別ですけどね」は
わかりやすい
映画と小説の例えもわかりやすい
やはり頭がいい人って説明も上手いですね
しゃべくり漫才、特に時事ネタなんかはネタがしっかりしてないと伝わらない
この文章でいうところの「コント漫才」は漫才もコントも技術不足でできない芸人の逃げ道だと思ってる
もちろん、コント漫才でもしっかり練られてる芸人もいるが、安直にコント漫才を選ぶ芸人の多いこと多いこと
コントはセット、かぶり物や扮装でまず最初のつかみはクリアしてるしね。
サンドイッチマンなんかは同じネタをセットや衣装無しでやっても面白いけどね。
漫才は筋書きを決めるが変化していく・・掛け合い。
身振り手振りが映らない声優は声だけで表現する
俳優は身体全体を使うから声だけ抽出すると棒読みに聞こえる
逆に言うと声だけで表現できる声優が顔出しすると、大袈裟な芝居に見えるんだけど
他の誰が言っても番組降板だ謝罪だとなりそうな言動が、この人にだけ許されちゃう風潮が有るから
でも、実際にこれはやっていい、とかダメとかってルールがあるのかな。
多くの人もわかってないんじゃないのかな?
落語は状況説明なしで会話だけで場面とか状況などすべてを理解してもらわないといけない。
特に芝居の度合いが。
たけしさんの言うことはすごくわかるけど、ジャンル分けは無意味なのかもしれない。
一発芸する芸人がコントって勝手に
感じていたけどそういう事か。
スッキリした。
とてもわかりやすい
たけしはわかりやすく説明してくれる。
インプットしてもアウトプット出来てないと試験も解けない。
たけしはやっぱり分析力も優れてる
それより漫才コントとしゃべくり漫才の違いこそ問題にしてほしいな。
やっぱりブラマヨやチュートリアルは面白い!!
設定なんかじゃなく、会話自体が面白い。
紳助さんが言ってたね、「“面白いネタ”じゃなくて、“面白い人”」って。
とても勉強になりました!
銀シャリなんかはまさにその王道をいってるんじゃないのかな。
確かに…これ、本を読むときとか、国語の教科書読むときとかに事前に教えておくと、生徒の理解度や成績が上がるような気がする…少なくとも、生徒が食いついてきそう。
行って笑いを取らねばならない漫談が一番ってことか?